唯の女優の卵だ

「じやあ私もこれで失禮しましよう」と立ち上つた。樣子がルリを追いかけて行く氣になつているらしい。いけないと思つたが、さてどうにもできない。「國友君、今のは以前から私のとこに來ている唯の女優の卵だ。あんな事を言つているが、貴島とは私んとこでほんのこの間知り合いになつたばかりで、格別深い關係があるわけじやない」急いで靴を履いている國友の背中に向つて私は言つた。「しかしねえ、私としては行くところまで行つて見ないじやあ、仕樣がないんでね。それはあんたもわかつて下さると思う」「貴島の事はさつき私が話した通りだ。あんた方の世界にあの男が手を出そうなどという氣は萬々無い事を僕が保證する。同じなに[#「なに」に傍点]するにしても、そこの所は考えてやつてくんないかなあ。ひとつ頼む」「わかつています。旦那と俺とは古いなじみだ。わかつてますよ。少くとも私個人としては、おかしな事はしやしません。唯みんなの奴等の事がありますからね、行くところまでは行つて見なくちやなりません。……失禮しました。いずれ又」 急ぎ足に去つた。 だしぬけに一人でとり殘されてしまつた私は、しばらくボンヤリして玄關に立つていた。貴島とルリの身の上にどんな事が起きるのか? つかまえ所の無い不安である。 しかし國友という男は、口に出してハッキリ引き受けなくても、あれだけ氣を入れて聞いてくれた事を裏切る男ではない、その點確信に近いものが私にはあつた。然し彼の口ぶりから察すると、貴島に對する報復の事は、既に彼個人の一存には行かなくなつている。「川の水が流れるようなもんで」と言つた。仲間や配下の事であろう。その連中が集團として動き始めると、それは又それで絶對的な意志を持つもので、もうそうなれば、たとえその徒黨の親分や統率者が自分個人の意志からそうさせまいといくら思つても、そうは出來ない事がある。その事を私は知つている。それだけに、更に惡い事が起きる事さえも想像されない事はない。 佐々兼武でも來てくれれば何かの處置の仕方が考えられない事もないと思つて心待ちにしたが、意地の惡いもので待つている時には現れない。一日たち二日たつうちに遂に私はジッとておれなくなつた。

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