モンペをはいているようです

「ああ、やつぱり來てる。あれですよ」と言うので、立つて僕は覗きました。 その家を出て、ゴタゴタと食物店の並んだ露路を出はずれた角のゴム靴などを賣つている店の軒先に、ちようど前日から降りつづいていたビショビショ雨をさけるようにして立つて、こつちを見ている女が居ます。軒先の蔭になつて顏は半分しか見えないし、モンペをはいているようです。するうち、女が歩き出して顏の七分ばかりがチラッと見え、僕はハッとしました。ルリさんでしたそれが。いや、ルリさんだと思つたのです。今から考えますと、ちがつていたような氣もします。ルリさんがあんな所に立つているわけがありません。佐々の話ではルリさんは僕の事を非常に憎んでいるということですが――そうです、僕があの晩ルリさんにした事を怒られるのは當然かもしれませんけれど、そんな憎まれるほどひどい事をしたおぼえは無いのです。いずれにせよ、こんな所まで僕を追つて來る道理がありません。 しかしその時はたしかにルリさんを見たと思いました。して見ると僕の心の底でルリさんを忘れきれないでいたのかも知れません。 その女はすぐに角から消え去つてしまつて、二度見直す暇は無く、確かにルリさんであつたかどうかを確かめることはできませんでした。 結局はそんな事もどうでもよい事です。あれがルリさんであつたとしてもです、この僕とは縁もユカリも無い人です。別の世界の人です。 僕はただこうして船の動きに搖られながら雨の音を聞いています。すべてが僕にとつてなんでしよう。僕はゴロツキの子分で無籍者です。全部愚劣なことです。 こんな事では無いのです。僕が手紙を書くのは、こんな事のためではありません。Mさんの事を知りたいんです。どうしても知らなくてはならないのです。この一週間ばかり急にそれがハッキリして來ました。僕が知りたいのはMさんに關係のある事なんです。それは今度お目にかかつて、くわしくお話しします。…………」 手紙は、そこでプツンと切れていた。明らかにまだ書きつづけるつもりのやつが途中で不意に中絶されたらしい。その中絶のしかたに何か不吉なものがあつた。

— posted by id at 01:43 pm  

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