滿洲事變

 滿洲事變から、日支事變と進んで行つた頃の父のそれについての氣持や態度は、僕にはわかりません。僕はまだ小さかつた。それに、そのような事について父は、いつでも、何も言わない性質です。戰爭が太平洋戰爭に入つてから、敗戰の色が濃くなり、そして僕が學生のままで出征することになつてからも、父は、戰爭について、どんな意見も吐きませんでした。 ただ、太平洋戰の最初、眞珠灣攻撃の報知を聞いた時に、ラジオの前で父は眞青になつて、「しまつた!」 と言いました。そして二三日、眼を赤くしていました。泣いていたようです。世間一般が、その報知に狂喜している最中にです。「しかたが無い。日本は負ける。そして亡びるかも知れん。しかたが無い。そんな風に順々に日本というものが、なつて來たのだ。今さら、もうどうにも出來まい」と言つていたのを僕はおぼえています。「同じ負けるにしても、なんとかして、日本が根こそぎ亡びてしまわぬようにしなければならぬ。われわれに出來ることは、それ位の所だ」とも言いました。 そして、父は父らしいやり方で戰爭に協力しました。實に寂しそうな顏をして、しかし、やつぱり父らしく懸命に全力をあげて協力していたようです。それは、僕が眺めても非常に矛盾した姿でした。しかし、それを僕は笑う氣にはなれませんでした。今でも笑う氣にはなれません。人は笑つたらいいと思います。僕は笑えません。

 僕は父が終戰の次ぎの月に自刄したと聞いても――悲しんだのは悲しんだのですが、それほど意外な氣はしませんでした。遺書なんか無くても、僕には父の氣持が手に取るようにわかるのです。父は軍人として、國に殉じただけです。父は、生きては居られなかつたのです。 僕という人間は文字通り、この父に育てられ、僕の人間の内容は全部が父の生みつけてくれたものです。僕は、自分の全部で、父を愛しているだけでなく、いま尚、父を信じているのです。まちがつていたのは父ではありません。父以外の力、父にはどうする事も出來なかつた力――それは歴史の流れとも言えるでしよう――です。 父は戰爭を好みませんでした。しかし、ホントの軍人でした。國を守るために、どうしても戰わなくてはならなくなつたら、戰つた人です。それを以て自分の義務としていた人です。その義務を神聖な仕事だと思つていた人です。刀を拔いてはいけない、しかし、どうしてもどうしても拔かなければならない時には拔く。それが軍國主義ならば、父は軍國主義者だつたのです。それが帝國主義ならば、父は帝國主義者でした。それが間違いだと言われれば、僕は反對する事が出來ません。しかし――いやいや、僕は何を言おうとしているのだ? いえ、僕は父をベンゴしようとしているのではありません。父は正しくなかつたかも知れません。まちがつていたのかも知れません。すくなくとも父を父のような軍人に育て上げた日本という國のありかたがまちがつていたのだと言えます。そうです、まちがつていました。父はまちがつていました。まちがつていた日本の、日本人の一人として、たしかに、まちがつていました。

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