僕があなたの前で泣いた時

 僕はあなたを、好きになつたらしいのです。好きになつたなんて、失禮な言いようである事は僕も知つていますが、ほかに言いようがチョット無いものですから。 先日あなたにお目にかかるまで、あなたの事を僕は好きでも嫌いでもありませんでした。そして、お目にかかつて、僕があなたの前で泣いた時に、あなたは一言も言われず、ただ怒つたような顏をして、だまつていられました。僕に同情したり、僕を慰さめてくださつたりは、なんにもなさらなかつた。僕は實にホッとしました。そのためか、僕は、あの數十分間、ホントに、久しぶりに、シンから泣けました。もうどんな事をしても救われる見こみの無い、暗い暗い穴の中で泣きました。あなたは一言も、僕を慰さめたり同情したり勵ましたりするような事は言われませんでした。そういう顏つきもなさらなかつた。ただ、怒つた眼をして、僕を睨みつけていられたのです。 それで僕はあなたが好きになつたのです。「好き」と言うのは、たしかに、當りません、あなたには冷たい所があります。きびし過ぎるところがあります。人を突き放すところがあります。すがり附いて行くと、叩きつぶされるような所があります。ですから、メソメソしたような氣持で好きになつたりは、できない人です。すくなくとも僕には、そんな風な人にあなたは思えます。ですから僕には、あなたが良いのです。そうです、あなたが良いのです。ピッタリするのです。好きと言うよりも、良いと言う方が近いです。 ですから、僕はあなたからMさんの事について教えていただきたい事があるだけで無く、この僕の事をわかつていただきたい氣がするのです。そうです、こんな手紙を書く僕の氣持は主にそのためです。

 又居る場所を變えました。前に居た室から四五町しか離れていない、ゴタゴタしたマアケット街の奧の、電車のガードの下の家です。食べる物やタバコは、黒田の家の者が一日に二度はこんでくれるので不自由はしません。 今度の室は、中華料理のヘットの匂いがします。そのため時々頭痛がして、食慾がまるで起きません。―― 前の續きを書きます。と言つても、前にどんな事を書いたか、忘れた所もありますが、讀み返して見る氣になりませんので、かまわず、アレコレと書きます。 この前、東京のRの事務所でお目にかかつた時に氣附いたのですが、それまで僕は僕のことをMさんが生前にあなたに對して話しておいて下さつたものだとばかり思つていたのが、實はMさんは、なんにも僕の事をあなたに話されたことが無いと言うことです。それに氣附きました。いかにもMさんらしいと、おかしくなります。ですから、僕がイキナリ訪ねて行つたりして、あなたはサゾびつくりなすつたでしよう。サゾ、きちがいじみた奴が現われたと思われたでしよう。すまないと思います。僕は實は甚だ平々凡々の人間なのです。その點おかしくてなりません。

— posted by id at 12:48 pm  

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