先日は失禮いたしました

        18[#「18」は縦中横]

「――」 先日は失禮いたしました。 あの晩、横濱の用事をすませて、すぐ荻窪へもどり、お目にかかれる豫定でいましたが、どうしても東京へ歸れなくなり、あなたをスッポカした結果になつてしまいました。申しわけありません。 僕があの晩東京へ歸れなくなつたわけは、佐々からお聞きくださつたと思います。同じ理由がまだ續いているため、まだ、こちらにおります。當分東京には歸れないと思います。實はこれは、あの晩荻窪で、聞いていただくつもりでした。しかし、當分お目にかかれそうに無いので、その代りに、こうして書いてみようと思つたのです。あるいは、口でしやべるよりは、書いた方がよくわかつていただけるかも知れないと言う氣もするのです。僕はひどいどもりなんです。でも、人は僕がドモルのを知りません。普通のドモリとはすこし違つて、口を開いて何か言い出す前に、おなかの中でドモるのです。頭の中がワーンと鳴つてしまつて、最初言おうと思つたことが頭の中一杯に反射してしまつて、まるでアベコベな考えが出て來たり、又それを打ち消したり、等々、そしてついに何も言えなくなりだまつてしまう事が多いのです。事務的な事がらなら、割にスラスラ言えます。また、いつたん物を言いはじめてしまえば、その先きは表面の言葉の上ではドモりません。頭の中がドモるのです。これは小さい時からですが、戰爭中に一時それが完全に治つたのですが、戰爭後になつたら、前よりもひどくなりました。自分の思うことの四分の一も口では言えないのです。馴れていますから、別に苦しくはありませんが、人に對して惡いなと思うことがよくあります。 文章に書いても完全には表現できませんけれど、でも、口で話すよりは、すこしましです。 今、ヘンな所にたつた一人で居りまして、誰からも邪魔されません。危險があるので、外へ出て行けないので。いえ、別に大した事ではありません。僕自身は、なんにも危險なんか感じていないのです。ただ、周圍の人たちがそう言うのです。強いてそれを押し切つて外に出て行く用事も別に有りませんから、ボンヤリして此處に坐つているのです。しめ切つた窓の外をハシケの汽笛の音が、時々通り過ぎて行きます。ネバネバしたような匂いが板壁のすき間から這い込んで來ます。これはアヘンの燒ける匂いです。しばらく前まで、この匂いがして來ると僕は頭がクラクラしましたが、今は、好きになりました。これを嗅いでいると今までスッカリ忘れていた自分の小さい時分の事などを、ヒョイヒョイと思い出すことがあるのです。とにかく、ヒマでしようが無い位に時間があります。一つには、そのタイクツを埋めるために、こんなものを書くのです。よつぽどお暇の時に、極く輕い氣持で讀んでください。

— posted by id at 12:47 pm  

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